家族写真を撮るとき、一つの葛藤があります。
完全な自然体の写真では、家族写真として成立しないこと。
全体として、よい雰囲気の写真を残すためにはどうしても作為が必要なことです。
ここでいう作為とは露骨に「笑ってくださーい」みたいな声かけではありません。それでは返って顔がこわばったり、変な姿勢になったりします。
子供の様子を観察しながら、全体としていい雰囲気にする。
ここが難しさでもあり、楽しさでもあります。
ですが逆にこの現場力が付いてくると、さほど仲のよくなさそうなご家族をなんとなくいい雰囲気に撮ることが可能になってきます。
例えば、御母様と義理のご両親との関係があまりよろしくないな、と感じたとしても画面構成としては上手いこと仲よさげに作り込むことができます。
それは構図の決め方だったり、撮影への巻き込み方だったりの工夫です。
仕上がった写真を見て、うん、今回もいい感じの写真に仕上げることができたな、と感じられれば一定の満足感があります。
しかし、です。ここから少し悩むポイント、葛藤がでてきます。
果たして、そのようにして「いい雰囲気に仕上げた写真」はクライアントであるご家族にとって、価値あるものとして成立しているのかな、という疑問です。
こちらがお声がけや流れなどから技を駆使しして、フェイクとまでは言わないまでも、笑顔を作って家族仲良くしている写真が撮れたとします。
それは後から見返して、つらいものにならないだろうか、という疑問です。
例えば、その後親が離婚した場合などです。仲よさげに映っている家族写真を見て、つらくなったりしないのかな。
今日の午前秋葉原のヨドバシでmac book pro 14インチを触っておりました。
仕事でフル稼働しているmacなので、ある程度のスペックが必要になるし、ハイスペックになればお値段も張ってきます。あーでもないこーでもないと悩みながら、同時にキーボードの打鍵感を確認していると、脇から感じの良い店員さんからの声がけがありました。
「何かお困りのことあればお声がけくださいね」と。
その純朴そうな雰囲気に安心したので、少し話してみることにしました。
「アップルストアで購入する場合と、このヨドバシとかに入っているショップから購入するのとでは何か違いはあるのですか」というような質問から会話を交わす内に、だんだんと意気投合してきました。
macを何に利用しているのか、という問いに対して店頭のmacでfotowaのサイトを開いて自己紹介をします。
「こんな写真を撮っています。画像処理としてRAW現像をするのである程度のスペックが必要なんですよね。現像を待つ間、メールしたりメモを取ったりマルチタスクになります」
「なるほど。そうすると確かにスペック高くなりますね。それにしても素敵な写真です。」
「あら、ありがとうございます」
という感じで会話が進みます。素敵な写真、と言われてついうれしくなって話し込んでしまいました。
くったくのない彼女が「私両親が離婚しているんですよ。でも、手元に両親が仲良かった頃の写真が何枚かあって宝物です」なんて言ってくれるので、つい普段思っていることを投げかけてみました。
「ちょっと失礼な質問かも知れませんけど、ご両親が離婚されていて、でも手元に残っている仲の良さそうな写真を見たときに、逆に傷つきませんか。例えば、こんなに仲良くしてたのに結局別れてしまった、みたいに負の感情がでてくることないですか」と。
「いえ、そんなことないです。むしろカメラマンさんが撮ってくれているので貴重な写真がきれいに残ってよかったなって思っています。その後仲が悪くなって離婚してしまっても、そのときは大切にしてくれていた訳じゃないですか。そう思うことができるので、大切な写真です」
この答えを聞いてなんだか胸のつかえがすっとなくなった気がしました。
多少の作為を駆使しつつ、今後も仲よさげな写真を収めていこう。それは価値あることなんだ、と思うことができました。