日本の漫画は世界的にみてもレベルが高い、と言われてるわよね。
注目が集まれば、そこに人材が集まって来るし、業界全体のレベルも当然上がってきます。
19世紀ロシア文学のように、21世紀ジャパニーズMANGAも後世への遺産となっていくのかしら。
バガボンド」(週刊モーニング不定期連載中)
さて今回取り上げたいのは「バガボンド」(週刊モーニング不定期連載中)。史実としては出会うことはなかった、と言われる一刀流の始祖、伊藤一刀斎と二刀流宮本武蔵。この二人が激突してたわ。
しかも見えないエゴが映像化されてオーラバトラーの炎のように(古すぎる・・・分かる人いる?)揺らめいてるわ。
面白さのポイントは以下の通りよ。
1 武蔵の台詞。 「俺はまた戦いの螺旋に巻き込まれたくない。しかし、この円の中に入ってくるものから何もせずに切られてもいいと思うほど従順じゃない。」 つまり、会えて殺しの螺旋に踏み込んでは行かないが、入ってくるなら容赦はしない、という構え。当然それは「誘っている」ような身振りにならざるを得ないわね。
2 一刀斎の台詞。 「どっちが強えか。試したくなるだろう。」 あくまで剣で切り結ぶことで最高のコミュニケーションをしたい人の台詞。 司馬遼太郎も書いていますが、歴史上の人物について、その時代の人に尋ねて歩いても真実は浮かび上がってこない。後世の人間の方が当時の人たちよりも知っているもの。つまり、同時代の人に 「宮本武蔵って、どんな人なんですか」 と聞いても適切な応えはでない。だって、まだ死んでないし、どう評価していいのか分からない訳よね。
伊藤一刀斎は日本の伝統的な一刀流を編み出した始祖とも言うべき人物で、その後多くの流派に引き継がれた。武蔵は一個の天才であって、その技術体系は二天一流として細々としか継がれていない。 理由としては武蔵のような気根を持ったものでないとその技術体験の習得は難しいから、ということ。それが理由で徳川家にも仕官できなかったと言われていますね。しかし、この根本原理のようなものは「五輪の書」となって広く世に知られることとなる。
こんな二人が偶然出会った、という展開になっています。
一刀斎が武蔵の書いた円より一回り大きな円を描いて、これは俺の刃圏だという。そして武蔵の認められたい、という欲求を喚起しておいて一言、 「駄目。それでは0点」 そこで、武蔵のオーラがメラッと炎たつ、という状況になる。
個人的に付き合うには面倒な人だが、その人の行動から目が離せない
みなさんの周りにもいるでしょう。個人的に付き合うには面倒な人だが、その人の行動から目が離せないという人。武蔵はまさにその典型的な「遠目から見物していたい人」。 そいつが一刀流の始祖との勝負に巻き込まれてるわけね。
戦いの螺旋はまだまだ続きそうだわ。 いったん炎立ったエゴが、なりをひそめて武蔵曰く
「こんな気持ちで一刀斎と向き合うのは、mottainai」。 (それにしてもこの台詞は輸出されたら、どうやって訳されるのかな・・・。口語的に言うと、 What a shame if I would face with you like this…. かなー、ちょっと違う?(ネイティブ英語に近い方いらっしゃったら是非教えてください)。
憤然とした一刀斎は黙したままその刃圏を乗り越え、見えなかった右腕を振り切って鞘走った・・・・ように見えました。
「たしかにまとわりつくような重さがあった・・・」
これって、非常に気になる台詞です。
バキがピクルに見せた鞭打では、皮膚の表面をたたくだけ。ここではその腕の重さについての言及がありません。シャオリー(消力=技術)は、弱いものが身につけた武器なので、強いものには要らない、と花山が言っているわ。
しかし、さらに一刀斎曰く、「千点やろう。しかし、小次郎の助太刀があったからだ。だから、やつの方が強い」 自我の凶暴性には勝つことのできた武蔵。さて、小次郎との戦いはどのような位置づけになるのでしょうか。 「身体をつかって、自分が生まれる前のオレってものを見付ける旅」はいよいよ最期の敵=パートナーへ。
この台詞があるが故に、単なる400年前の昔話に終わらず普遍的な価値を持つのでしょうね。
武蔵はカラスの飛び立つ瞬間、起こりを察知して剣を振って、遊んでます。